2013年03月03日

マインドフルネスE(今、この瞬間)

 みなさま、ご無沙汰しております。私はチンチョウゲの香りがとても大好きなのですが、この花の香りがする頃には花粉症もやってくるため、いつも複雑な気持ちです(^^;)。とはいえ、以前ほど「いやだな〜」という思いはやわらいで来たようにも思います^^。
マインドフルネスに関してのブログ予定は8回です。あと3回、熱意をもって書き上げてみます。

 マインドフルネス(ハートフルネスとも表現されるます)とは、「今、この瞬間におこっている、あなたやあなたのまわりのこと」に対して、どんなことであれ、興味・関心、やさしさ(慈愛)をもって意図的に意識を向ける状態のことをさします。この状態を、あることモード(Being mode)と表現し、受容という言葉もほぼ同じ意味を指しています。めい想の練習を通して、普段のすることモード(Doing mode)から、あることモード(Being mode)に入るように練習をしていきます。自転車の乗り方を覚えるように、やりながら体得して、はじめて納得できるといったものですので、本を読んで頭で理解するだけでは余計に難しく感じてしまうかもしれません。

 新しく平成24年11月に「うつのためのマインドフルネス実践〜慢性的な不幸感からの解放〜」カバットジン他著 星和書店が出版されました。日本語訳がこなれていないことと、訳の間違いではと思われる箇所が散見されるのが残念ですが、めい想のもたらす効果や、うつへの応用をとても理論的に解説しており、内容は大変すばらしいものと思います。また、日本語版としてのボディースキャンやめい想のCDつきですので実践するのに便利かとも思います。ちなみに、この本では、あることモード(Being mode)を「存在モード」と訳し、することモード(Doing mode)を「作業モード」と訳し変えています。

 レーズンエクササイズにみる、「今、この瞬間に」注意を向けることによりもたらされるものは、たった一粒のレーズンからとても芳醇な味わいなどを感じ取れるといった充実感でした。我々が、「今、この瞬間」を楽しめないことの多くの要因は、記憶が邪魔をしていたり、未来の心配などにより心がさ迷ったりしていることがとても関係します。とくにそうしようと思っているわけではないのに、気がつけば何となくそのようにして、連続する「今、この瞬間」を過ごし続けています。マインドフルネスやめい想では、そのことに気づくことを目指しています。しかし、それが悪いこと、と指摘しようとしているのではありません。先人のいろんな文章が、「今、この瞬間」に目を向けることの意義を教えてくれています。
(この、『それが悪いこと、と指摘しようとしているのではありません』というところに、?と感じる人も多いと思います。私が『それが悪いこと、と指摘しようとしているのではありません』という言葉の意味を理解できだしたのも、ついこの頃のことです。次回に説明を試みてみます。)


なんだか駆り立てられていませんか?

 「あなたのさまざまな思考は、たんなる思考に過ぎず、それらは“あなた”や“現実”ではないと理解できると、いかに自由な感じがするか、それは注目に値することである。・・・・思考をたんなる思考として認識するという単純な行為は、しばしば思考が作り出すゆがんだ現実からあなたを自由にし、生に対するもっと澄んだ洞察とより大きな統制感を手に入れることを可能にする」カバットジン


 「思考にまきこまれてしまうと、自分と思考との区別が難しくなります。思考によってさらわれた心は、元いた場所から、あっというまに遠くへ運ばれてしまいます。思考という列車に飛び乗ってしまったことさえ気付かずに、どこへ運ばれるかも分からないままに、次々に連なる連想という列車に乗って運ばれてしまいます。線路のどこかで目覚めて、考えていることや列車に乗っているということに気付くかもしれません。列車から降りるときには、飛び乗ったときとは全く異なる精神状態にあるかもしれません」ゴールドステイン

 やすらぎ(peace)は現在の瞬間にのみ存在可能である。「これを終えるまで待てば、そのときは安らぎの中に生きる自由が得られる」などと言うのはばかげている。「これ」とは何なのだ? 卒業証書か、仕事か、住宅か、借金の返済か? そのように考えれば、やすらぎは決して訪れない。現在のものに続く、別の「これ」がいつも存在する。この瞬間にやすらいで生きていないのなら、決してやすらぎの中に生きることはできない。本当にやすらかでありたいのなら、今現在やすらかでなければいけない。さもなければ「いつの日かやすらぐという希望」があるだけだ。ティク・ナット・ハン 

 人生の進み具合というものは、なんと奇妙なものだろう!小さな子供は「もっと大きくなったら」と口にする。だが、どうしたことだ。大きくなった子供は、「おとなになったら」と言うではないか。そして、おとなになると、「結婚したら」と言う。けれでも、結婚したらいったいどうなるか?考えがコロリと変わって、「退職したら」とくる。やがて退職が現実のものとなると、自分の過ぎし日の光景を思い浮かべる。そこには木枯らしが吹きすさんでいるようだ。どういうわけか、すべてを取り逃してしまった。もはや過ぎ去ってしまったのだ。そして遅ればせながら、われわれは学ぶ。人生とは、生きることの中、つまり毎日毎時間の連続にあるのだということを。スティーブン・リーコック
posted by かなめクリニック at 08:00| 精神科・心療内科